長嶋茂雄、日本プロ野球の英雄があの世へ旅立った夜ベルーナドームで黙祷を捧げてきた。

2025年6月3日、午前8時50分を過ぎた頃、何気にiPhoneを覗くとニュースの通知があった。

画面に目をやると長嶋茂雄の訃報だった。89歳での大往生だ。僕が大好きな人物のひとりであり、尊敬もしていた。その理由は、あの存在自体が太陽のように輝き、日本全体を明るく照らしていたからだ。昭和時代を生きた人々にとって讀賣巨人軍の長嶋茂雄は大スター以外の何者でもない。

小学1年で野球をはじめた僕は、親が巨人ファンだったこともあり、ナイター中継をテレビで観ていた。王貞治がまだ現役でホームランを700本ほど打っていた頃だと思う。長嶋さんは監督だった。現役の頃の活躍は記憶にないし、僕がよく知る長嶋さんは引退する時の挨拶だ。「我が讀賣巨人軍は永久に不滅です」という日本プロ野球史に残るシーンだ。

天皇陛下をお迎えした天覧試合でさよならホームランを打ったシーンもテレビのVTRで観て、すごい人なんだという印象はあったが、僕が知るのは監督時代からだ。それでも、小学生の僕は長嶋茂雄に惹かれた。子供にとって巨人軍は憧れの球団だし、その監督だからファンになるのは当然である。

しかし、僕はそれ以上に時々テレビで流れる選手時代のプレイスタイルに魅力を感じていた。

子供の頃は、巨人軍がプロ野球の中心にあった。テレビでは毎試合放映していたし、逆に他の試合中継を関東で観ることは稀だった。パリーグの試合などは皆無で、今みたいに沢山のお客さんが詰めかける光景はなく、寂れた球場のガラガラの観客席での試合結果をプロ野球ニュースで見るくらいだった。

いつかのオリンピックの代表監督として就任した後、長嶋茂雄が倒れた。

その頃は、プロ野球に興味を失っていたので大きなショックはなかったが、一命を取り止めリハビリに励む様子としっかり話せなくなった姿を観た時はさすがに言葉を失ったことを覚えている。それでも長嶋茂雄は懸命に生きた。表舞台からは降りてしまったが、僕たちの太陽は明るい光を放ちつづける。

スーパースターの生き様はただひたすらにかっこよかった。

長嶋茂雄があの世に帰還した夜、僕は仕事を早めに切り上げて所沢のベルーナドームへ向かった。

試合前は、花咲徳栄高校の吹奏楽部が見事な演奏で盛り上げてくれた。そして、その後、スクリーンに大きく長嶋茂雄が映し出され、選手や監督、コーチ陣たちと共に観客も黙祷を捧げた。西武ライオンズに直接的な関わりがあるわけではないが、日本プロ野球の現在があるのも、巨人軍と長嶋茂雄の功績であることは間違いない。

そして何より、僕が野球に導いてくれたこと。練習は嫌で嫌で仕方なかったし、試合も負けたことしかなかったが、今の自分があるのは野球の練習で根性を叩き直され、鍛えられたおかげである。

この夜、西武ライオンズはまったく打てずにヤクルトの先発投手ランバートに苦しめられ、ヤクルトもチャンスを作るも打てない。お互いが打てない展開で9回が終わって0対0で延長線に突入。花咲徳栄高校の吹奏楽が奏でるチャンステーマ4が発動したのが11回裏。まずは、外崎修汰が粘っての四球。

花咲徳栄出身の愛也で魔曲サスケが流れ、ボテボテのゴロの間に外崎修汰は2塁へ。つづく源田壮亮も粘って四球を選ぶ。そして3番、セデーニョがなんとか三遊間に転がし、それをショートの伊藤選手が焦ってサードへ悪送球してしまう。

あっけない幕切れ、さよなら勝利、そして歓喜の渦。

何万人という人々が球場に集い、感情を動かさ熱狂する。その醍醐味はものすごい。選手たちは人生を野球に賭け、子供の頃から猛烈に鍛錬をする。そんな日本プロ野球の礎を築き、人気に火をつけた長嶋茂雄が旅立った夜らしい試合となった。

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