13年前に起きた大地震の日、18:45頃。
自転車で大泉町の家に帰るとオカンはコタツに入って心配しながら出迎えてくれた。停電しているからコタツは冷たいままだが、幸いにも石油ストーブがあったので暖かった。暗い部屋の中、ストーブの灯りがやけに身に沁みた。
3月といっても群馬県は朝晩冷え込む。
猫のクロロくんも無事で何よりだ。
ストーブのヤカンにはお湯が沸いていてシューッと音が部屋に響いていた。少し落ち着き、オカンの話を聞くと2階に居た時に最初の揺れがきたらしい。いくつか荷物が落ちたが大きな被害はなかった。オカンはとても気丈な人なのでいつもと同じように明るくしていたが、やはりどこか心細げな感じがした。
そうしているうちにも余震で大きく揺れる。
20時を過ぎたところで、放射能漏れの可能性を話をして万が一のためにガソリンを満タンすること、ペットボトルの水を買い出しに行くことになった。
次の日からガソリンスタンドは大行列になるのだが、当日の夜はまだ空いていた。その後、スーパーに立ち寄ったがすでに食料品はカップ麺、お弁当、惣菜の棚は空になっていた。これが買い占めってやつなのか、、と思いながら仕方なくセブンイレブンに寄ったが、ここも同じく食料品は底をついていた。
水は何とか確保できた。
家に帰ったのが22時くらいで、この日は停電のためお風呂に入れずそのままベッドに潜り込んだ。iPhoneでメルトダウンの情報をあさっていたらエフエム東京系列のJFN(ジャパンエフエムネットワーク)でパーソナリティでジャーナリストの上杉隆さんの番組に耳がとまった。
すでに3月11日の夜の時点でメルトダウンの可能性を疑い、事実をリスナーに伝えようという強い姿勢が感じられたからだ。
大本営発表のNHKや他の番組は頻繁につづく余震と津波の被害、原発に関しては曖昧な情報しか流していなかった。夕方の時点で建屋が爆発し水蒸気のようなものが噴き出た映像は流れていたので、機器的状態にあることは間違いがなかった。
風向きの情報は会社にいた時に隣のデスクの原君と確認をしていたので、群馬県に避難勧告が出される可能性はまず無いのと、直線距離で100km以上はあったので不安はあったが今日の時点では逃げる必要はないと判断をして布団に入ることにした。
23時になっても停電はつづいていた。
iPhone(当時は3GS)の電池には限りがあるため、照度を下げ、時々Twitterを見る程度でラジオに耳を傾けながら余震に怯えていた。グラグラと家が軋むほどの大きな余震がくる。
上杉隆氏のラジオで記憶しているのは「アンパンマンのマーチ」「上を向いて歩こう」を流して、この曲は今まで何度も何十回も聞いているのに、この時はやけに胸に沁みた。明日が来るのかどうかもわからない、本当にそんな気持ちではあったが、どんな世界(放射能に汚染された世界)が訪れるにしても前向きに生きていこうという気持ちになれたのはこのラジオ番組のおかげだったと思う。
ベッドに入ったが、余震でグラグラと頻繁に揺れるとさすがに眠れない。
深夜0時近かったと思う。
突然、電気が復旧した。
急いでiPhoneを充電ケーブルに差してチャージを始めた。
またいつ停電になるか分からないが、とりあえずホッとした。それと共に、暗闇(街灯や信号まで消えていた)が再び明るくなったことにつまらなさを感じた。当時は、最悪の事態(放射能汚染)を想定して必要な荷物をまとめて関西あたりまで車で逃げる準備をしていたわけだし、電気がなければ薪でも何でも燃やして生き延びるくらいのサバイバルを覚悟していた。
それが電気の復旧と共に元の生活が復元されたのだ。
しかし、余震と津波、そして原発事故のニュースを聞いていると「もう元の世界に戻れない」というのは抗えない事実だし、僕たちはこの変化の荒波に乗っていかなければならない、そんな覚悟はできていた。
とはいえ、サバイバルの知識も技能も、食糧の自給能力も何もないわけで、日常生活というものが電気、水道、ガス、コンビニ、スーパー等のインフラに頼っていた、言い方を変えれば他者に依存しないと生きていけないことを自覚するしかなかった..そんなことを考えていると眠気がまったくやってこない。
明日からしばらくは体力勝負になるわけだし、iPhoneの電池をチャージするように僕の身体も睡眠チャージをしなければならないのだが。
3月12日は平常通り出勤の予定だったがフレックス制で自由な時間に出社できたし、理由をつけて休める状況なので、Twitterでメルトダウンと風向きの情報を確認しては目を閉じるを繰り返していた。
時間は26:00(午前2時)を過ぎていた。
この頃になると、Twitterは街が津波にのまれて車や家が流されている映像にあふれていた。そんな中、東北の上空に出現した未確認飛行物体の映像に僕の意識はのまれてしまった。3.11、仕事が終わって自転車で家に帰る途中で僕自身が目撃した巨大火の玉の衝撃と興奮が冷めていなかったこともあり、映像に映る不思議な浮遊物体は、僕にとっては生きる世界が変革した象徴だった。
しかも、未確認飛行物体が出現した映像はひとつではなく複数あった。
まるで僕たち人間を監視しているかのように..
▼この投稿の2時間前に起きた出来事
東日本大震災の夜に目撃した「謎の巨大火の玉」はいったい何だったのか?
僕(@ka__zz)の人生にとって2011年3月11日は巨大地震、福島第一原発のメルトダウン、そして巨大な火の玉を目撃した日として深く記憶に刻まれた日です。 東北と関東を襲った大地震と津波、原発の崩壊。 その夜、停電で真っ暗になった街をチャリで帰宅をしている時、SF映画でしか見たことが...
放射能汚染への恐怖心はこれから始まる世界への期待感しかなく、混乱の未来へ突入したこの日を受け入れることができた。強い気持ちが心の底から湧いてくるとようやく眠くなりウトウトとしてきた。
iPhoneを見るとすでに3時を過ぎており、明日から始まる激動の日々を生き抜くために眠りについた。
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