「プライベート・ライアン」戦争の現実と兵士の生き方を描いたスピルバーグの名作

D-day(ノルマンディー上陸作戦)の最初の作戦となるネプチューン作戦。5つの上陸ポイントのうちコードネーム「オマハビーチ」は生き地獄ともいえる激戦区である。主人公ミラー大尉(トム・ハンクス)率いる部隊の様子を描いた映像は、観ている僕たちを実際のその場に五感ごと放り出させてくれる。

映画やテレビは疑似体験を与えてくれるが、最前線の擬似体験をしたのはこの映画が初めてだし、その壮絶かつリアルな感覚によって思考を失い、脳がビリビリとしびれ、呼吸ができなくなる。まさに戦場のなかに僕らを連れていってくれる。

マシンガンから放たれる無数の銃弾、大砲、手榴弾、地雷、火焔放射、そして味方の銃弾..そんな中を前進しなければならない。人間の尊厳など微塵もないその環境において、生きるか死ぬか、という選択肢すらない。あるのは、無惨に死ぬか重傷を負って息絶えるのを待つかだけだ。そんな極限の状況で生き残るには、なんとしても生き延びるという精神の力と、神の采配による運しかない。

ナチスドイツが占領していた第二次世界大戦中のフランス北部ノルマンディー地方、1944年6月のこと。連合国軍による侵攻は史上最大の作戦とも呼ばれ、兵士200万人超を動員。開戦当初の電撃作戦によって快進撃をつづけたドイツは、ソビエトに侵攻するもスターリングラードで苦戦を強いられ敗退。これが決定的なダメージとなり、さらに軍部だけでなく様々なところでほころびが出て、もはや勝てる見込みがなくなっていた時期である。

オマハビーチではアメリカの上陸部隊が先陣をきった。

主人公のミラー大尉たちは、まさに最前線を担当しており壮絶な戦いを繰り広げる。

戦争は人を殺して生き延びるのが仕事であり目標である。どんな残虐な殺し方でも構わない。敵が現れたら銃を放つ。女だろうが子供だろうが武器を持っていれば殺す。殺せば殺すほど英雄になれる。そして、生きる!という思いが強くないと兵士として戦えない。

そして、生き延びる以上に死に様も大事であることを教えてくれるのがこの映画だ。

プライベート・ライアンで描かれている「死」は、序盤は虫ケラのように人が死んでいく。後半にかけてそれぞれの兵士の背景が描かれ、それぞれの人間性を描いている。とても魅力的な登場人物たちだしストーリーも最高ではある。しかし、残念だったのはナチスドイツの兵士はただの「雑魚敵」として、タイガー戦車がボスキャラ的な単純な描き方しかしていなかった。

それはまさにナチスに洗脳されたロボットのように画一的で一面的なドイツ兵であり、よくあるアメリカの安っぽい戦争映画に出てくる日本兵と変わりない。ただ、ドイツ兵の人間性まで描いたとしたらこの映画が成り立たなくなるのも事実。スピルバーグはシンドラーのリスト(1993年)でもナチスドイツによる非人道的なホロコーストで起きた物語を描いた。

どうしてもアメリカ映画は正義と悪の白黒をハッキリつけたがる傾向にある。

(クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」は日米双方の視点で描いており正義と悪の構図がほぼ無い:両方ともスピルバーグ制作が驚く)

話は逸れたが、プライベート・ライアンは不条理な任務を与えられた部隊が、葛藤しながらも命令を遂行するストーリーである。その不条理さにミラー大尉の部下が疑問を示す場面もあるが、結局は任務を遂行していき、最後は主人公も銃弾に倒れて死んでしまう。

自分の役割を全力で果たし、最後は散っていった。

僕たちは、戦争が時代に生きてはいる。しかし、一見すると平和なこの社会ではあるが、よくよく考えると多くの不条理によって作られた、小さな小さな不条理さの集合環境なかで生かされている。それでも、ミラー大尉のように自分の役割をしっかりと果たしていくことが人の生き方であると思う。

最後となるが、スピルバーグ監督の映画は何度も見返したくなるもの(未知との遭遇、プラベート・ライアン、)と面白い作品なのに二度と観たく無い映画(シンドラーのリスト、E.T)に分かれる。

プライベート・ライアンは悲劇なのに何度も繰り返し観ている。

その理由は、僕の人生にとって必要な要素がたっぷり詰まっているからだ。
 
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